卷二十五《志第十五》

卷二十五《志第十五》
輿服
史臣曰:昔者乘雲效駕, 卷領垂衣, 則黃帝皁衣纁裳, 放勛彤車白馬, 葉三微之序, 舍寅丑之建, 玄戈玉刃, 作會相暉。若乃參旗分景, 帝車含曜, 又所以營衛南宮, 增華北極。《月令》季夏之月, 「命婦官染彩」, 赬丹班次, 各有品章矣。高旗有日月之象, 式視有威儀之選, 衣兼鞙珮, 衡載鳴和, 是以閑邪屏棄, 不可入也。若乃正名百物, 補緝四維, 疏懷山之水, 靜傾天之害, 功尤彰者飾彌煥, 德愈盛者服彌尊, 莫不質良, 用成其美。《書》曰:「明試以功, 車服以庸。」「《禮記》曰:「鸞車, 有虞氏之路也。鉤車, 夏后氏之路也。大路, 殷路也。乘路, 周路也。」而韍火山龍, 以通其意。前史以為, 聖人見鳥獸容貌, 草木英華, 始創衣冠, 而玄黃殊采;見秋蓬孤轉, 杓觿旁建, 乃作輿輪, 而方圓異則。遇物成象, 觸類興端。周因於殷, 其來已舊。成王之會, 壇垂陰羽, 五方之盛, 有八十物者焉。宗馬鳥旌, 奚往不格, 殷公、曹叔, 此焉低首。《周禮》, 巾車氏建大赤以朝, 大白以戎。雅制弘多, 式遵遺範, 賓入異憲, 師行殊則, 是以有嚴有翼, 用光其武, 鉤膺鞗革, 乃暢其文。六服之冕, 五時之路, 王之常制, 各有等差。逮禮業彫訛, 人情馳爽, 諸侯征伐, 憲度淪亡, 一紫亂於齊飾, 長纓混於鄒玩。孔子曰:「君子其學也博, 其服也鄉。」若乃豪傑不經, 庶人干典, 彯鷸冠於鄭伯之門, 躡珠履於春申之第。及秦皇并國, 攬其餘軌, 豐貂東至, 獬豸南來, 又有玄旗皁旒之制, 旄頭罕車之飾, 寫九王之廷於咸陽北阪, 車輿之綵, 各樹其文, 所謂秦人大備, 而陳戰國之後車者也。及凝脂布網, 經書咸燼, 削滅三代, 以金根為帝軫, 除棄六冕, 以袀玄為祭服。高祖入關, 既因秦制。世宗挺英雄之略, 總文景之資, 揚霓拂翳, 皮軒記鼓, 橫汾河而祠后土, 登甘泉而祭昊天, 奉常獻儀, 謂之大駕, 車千乘而騎萬匹。至於成帝, 以幸姬趙飛燕置屬車間豹尾中, 又楊雄所謂彏天狼之威弧, 張曜日之靈旄, 駢羅列布, 霧集雲合者也。於後王氏擅朝, 武車常軔, 赤眉之亂, 文物無遺。建武十三年, 吳漢平蜀, 始送葆車輿輦, 充庭之飾, 漸以周備。明帝採《周官》、《禮記》, 更服袞章, 天子冠通天而佩玉璽。魏明以黼黻之美, 有疑於僭, 於是隨章儐略, 而捐者半焉。高堂隆奏曰:「改正朔、殊徽號者, 帝王所以神明其政, 變民耳目也。」帝從其議, 改青龍五年為景初元年, 服色尚黃, 從地正也。世祖武皇帝接天人之貺, 開典午之基, 受終之禮, 皆如唐虞故事。晉氏金行, 而服色尚赤, 豈有司失其傳歟!
玉、金、象、革、木等路, 是為五路, 並天子之法車, 皆朱班漆輪, 畫為𣝛文。三十幅, 法月之數;重轂, 貳轄, 以赤油, 廣八寸, 長三尺, 注地, 繫兩軸頭, 謂之飛軨。金薄繆龍繞之為輿倚較, 較重, 為文獸伏軾, 龍首銜軛, 左右吉陽筩, 鸞雀立衡, 𣝛文畫轅及轓。青蓋, 黃為裏, 謂之黃屋。金華施尞末, 尞二十八以象宿。兩箱之後, 皆玳瑁為鵾翅, 加以金銀雕飾, 故世人亦謂之金鵾車。斜注旂旗於車之左, 又加棨戟於車之右, 皆橐而施之。棨戟韜以黻繡, 上為亞字, 繫大蛙蟆幡。軛長丈餘。於戟之杪, 以犛牛尾, 大如斗, 置左騑馬軛上, 是為左纛。轅皆曲向上, 取《禮緯》「山車垂句」之義, 言不揉而能自曲。
玉、金、象三路, 各以其物飾車, 因以為名。革者漆革, 木者漆木。其制, 玉路最尊, 建太常, 十有二旒, 九仞委地, 畫日月升龍, 以祀天。金路建大旂, 九旒, 以會萬國之賓, 亦以賜上公及王子母弟。象路建大赤, 通赤無畫, 所以視朝, 亦以賜諸侯。革路建大白, 以即戎兵事, 亦以賜四鎮諸侯。木路建大麾, 以田獵, 其麾色黑, 亦以賜籓國。玉路駕六黑馬, 餘四路皆駕四馬, 馬並以黃金為文髦, 插以翟尾。象鑣而鏤錫, 錫在馬面, 所謂當顱者也。金<鍐-釒>而方釳, 金<鍐-釒>謂以金<鍐-釒>為文。釳以鐵為之, 其大三寸, 中央兩頭高, 如山形, 貫中以翟尾而結著之也。繁纓赤罽易茸, 金就十有二。繁纓, 馬飾纓, 在馬膺前, 如索裙。五路皆有錫鸞之飾, 和鈴之響, 鉤膺玉瓖, 鉤膺, 即繁纓也。瓖, 馬帶玦名也。龍輈華轙, , 車轅也, 頭為龍象。轙, 謂車衡上環受鸞者也。朱幩。幩, 飾也, 人君以朱纏鑣扇汗, 以為飾也。法駕行則五路各有所主, 不懼出;臨軒大會則陳乘輿車輦旌鼓於其殿庭。
, 坐乘者謂之安車, 倚乘者謂之立車, 亦謂之高車。案《周禮》, 惟王后有安車也, 王亦無之。自漢以來制乘輿, 乃有之。有青立車、青安車、赤立車、赤安車、黃立車、黃安車、白立車、白安車、黑立車、黑安車, 合十乘, 名為五時車, 俗謂之五帝車。天子所御則駕六, 其餘並駕四。建旂十二, 各如車色。立車則正豎其旂, 安車則邪注。駕馬, 馬亦各隨五時之色, 白馬則朱其尾, 左右騑驂, 金<鍐-釒>鏤錫, 黃屋左纛, 如金根之制, 行則從後。五牛旗, 平吳後所造, 以五牛建旗, 車設五牛, 青赤在左, 黃在中, 白黑在右。豎旗於牛背, 行則使人輿之。牛之為義, 蓋取其負重致遠而安穩也。旗常纏不舒, 所謂德車結旌也。天子親戎則舒, 謂武車綏旌也。
金根車, 駕四馬, 不建旗幟, 其上如畫輪車, 下猶金根之飾。
耕根車, 駕四馬, 建赤旗, 十有二旒, 天子親耕所乘者也。一名芝車, 一名三蓋車。置耒耜於軾上。魏景初元年, 改正朔, 易服色, 色尚黃, 牲用白, 戎事乘黑首白馬, 建大赤之旂, 朝會則建大白, 行殷之時也。泰始二年, 有司奏:「宜如有虞遵唐故事, 皆用前代正朔服色, 其金根、耕根車, 並以建赤旗。」帝從之。
, 案自漢以來為人君之乘, 魏晉御小出即乘之。
戎車, 駕四馬, 天子親戎所乘者也。載金鼓、羽旂、幢翳, 置弩於軾上, 其建矛麾悉斜注。
獵車, 駕四馬, 天子校獵所乘也。重輞漫輪, 繆龍繞之。一名闒戟車, 一名蹋豬車。魏文帝改名蹋獸車。《記》云「國君不乘奇車」, 奇車亦獵車也。古天子獵則乘木輅, 後人代以獵車也。
遊車, 九乘, 駕四, 先驅之乘是也。
雲罕車, 駕四。
皮軒車, 駕四, 以獸皮為軒。
鸞旗車, 駕四, 先輅所載也。鸞旗者, 謂析羽旄而編之, 列系幢傍也。
建華車, 駕四, 凡二乘, 行則分居左右。
輕車, 駕二, 古之戰車也。前後二十乘, 分居左右。輿輪洞朱, 不巾不蓋, 建矛戟麾幢, 置弩箙於軾上。大駕法駕出, 射聲校尉、司馬、吏士、戰士載, 以次屬車。
司南車, 一名指南車, 駕四馬, 其下制如樓, 三級;四角金龍銜羽葆;刻木為仙人, 衣羽衣, 立車上, 車雖回運而手常南指。大駕出行, 為先啟之乘。
記里鼓車, 駕四, 形制如司南, 其中有木人執棰向鼓, 行一里則打一棰。
羊車, 一名輦車, 其上如軺, 伏兔箱, 漆畫輪軛。武帝時, 護軍羊琇輒乘羊車, 司隸劉毅糾劾其罪。
畫輪車, 駕牛, 以彩漆畫輪轂, 故名曰畫輪車。上起四夾杖, 左右開四望, 綠油幢, 朱絲絡, 青交路, 其上形制事事如輦, 其下猶如犢車耳。古之貴者不乘牛車, 漢武帝推恩之末, 諸侯寡弱, 貧者至乘牛車, 其後稍見貴之。自靈獻以來, 天子至士遂以為常乘, 至尊出朝堂舉哀乘之。
屬車, 一曰副車, 一曰貳車, 一曰左車。漢因秦制, 大駕屬車八十一乘, 行則中央左右分為行。
法駕屬車三十六乘。最後車懸豹尾, 豹尾以前比之省中。屬車皆皂蓋朱里雲。
御衣車、御書車、御軺車、御藥車, 皆駕牛。
陽遂四望繐窗皁輪小形車, 駕牛。
象車, 漢鹵簿最在前。武帝太康中平吳後, 南越獻馴象, 詔作大車駕之, 以載黃門鼓吹數十人, 使越人騎之。元正大會, 駕象入庭。
中朝大駕鹵簿
先象車, 鼓吹一部, 十三人, 中道。
次靜室令, 駕一, 中道。式道候二人, 駕一, 分左右也。
次洛陽尉二人, , 分左右。
次洛陽亭長九人, 赤車, 駕一, 分三道, 各吹正二人引。
次洛陽令, 皁車, 駕一, 中道。次河南中部掾, 中道。河橋掾在左, 功曹史在右, 並駕一。
次河南尹, 駕駟, 戟吏六人。
次河南主簿, 駕一, 中道。
次河南主記, 駕一, 中道。
次司隸部河南從事, 中道。都部從事居左, 別駕從事居右, 並駕一。
次司隸校尉, 駕三, 戟吏八人。
次司隸主簿, 駕一, 中道。
次司隸主記, 駕一, 中道。
次廷尉明法掾, 中道。五官掾居左, 功曹史居右, 並駕一。
次廷尉卿, 駕駟, 戟吏六人。
次廷尉主簿、主記, 並駕一, 在左。太僕引從如廷尉, 在中。宗正引從如廷尉, 在右。
次太常, 駕駟, 中道, 戟吏六人。太常外部掾居左, 五官掾、功曹吏居右, 並駕一。
次光祿引從, 中道。太常主簿、主記居左, 衛尉引從居右, 並駕一。
次太尉外督令史, 駕一, 中道。
次西東賊倉戶等曹屬, 並駕一, 引從。
次太尉, 駕駟, 中道。太尉主簿、舍人各一人, 祭酒二人, 並駕一, 在左。
次司徒引從, 駕駟, 中道。
次司空引從, 駕駟, 中道。三公騎令史戟各八人, 鼓吹各一部, 七人。
次中護軍, 中道, 駕駟。鹵簿左右各二行, 戟楯在外, 弓矢在內, 鼓吹一部, 七人。
次步兵校尉在左, 長水校尉在右, 並駕一。各鹵簿左右二行, 戟楯在外, 刀楯在內, 鼓吹各一部, 七人。
次射聲校尉在左, 翊軍校尉在右, 並駕一。各鹵簿左右各二行, 戟楯在外, 刀楯在內, 鼓吹各一部, 七人。
次驍騎將軍在左, 游擊將軍在右, 並駕一。皆鹵簿左右引各二行, 戟楯在外, 刀楯在內, 鼓吹各一部, 七人。騎隊, 五在左, 五在右, 隊各五十匹, 命中督二人分領左右。各有戟吏二人, 麾幢獨揭, 鼓在隊前。
次左將軍在左, 前將軍在右, 並駕一。皆鹵簿左右各二行, 戟楯盾在外, 刀楯在內, 鼓吹各一部, 七人。
次黃門麾騎, 中道。
次黃門前部鼓吹, 左右各一部, 十三人, 駕駟。八校尉佐仗, 左右各四行, 外大戟楯, 次九尺楯, 次弓矢, 次弩, 並熊渠、佽飛督領之。
次司南車, 駕駟, 中道。護駕御史, , 夾左右。
次謁者僕射, 駕駟, 中道。
次御史中丞, 駕一, 中道。
次武賁中郎將, , 中道。
次九游車, 中道, 武剛車夾左右, 並駕駟。
次雲罕車, 駕駟, 中道。
次闒戟車, 駕駟, 中道, 長戟邪偃向後。
次皮軒車, 駕駟, 中道。
次鸞旗車, 中道, 建華車分左右, 並駕駟。
次護駕尚書郎三人, 都官郎中道, 駕部在左, 中兵在右, 並騎。又有護駕尚書一人, , 督攝前後無常。
次相風, 中道。
次司馬督, 在前, 中道。左右各司馬史三人引仗, 左右各六行, 外大戟楯二行。
次九尺楯, 次刀楯。
次弓矢, 次弩。
次五時車, 左右有遮列騎。
次典兵中郎, 中道, 督攝前卻無常。左殿中御史, 右殿中監, 並騎。
次高蓋, 中道, 左罼, 右罕。
次御史, 中道, 左右節郎各四人。
次華蓋, 中道。
次殿中司馬, 中道。殿中都尉在左, 殿中校尉在右, 左右各四行。細楯一行在弩內, 又殿中司馬一行, 殿中都尉一行, 殿中校尉一行。
次手罡鼓, 中道。
次金根車, 駕六馬, 中道。太僕卿御, 大將軍參乘。左右又各增三行, 為九行。司馬史九人, 引大戟楯二行, 九尺楯一行, 刀楯一行, 由基一行, 細弩一行, 跡禽一行, 椎斧一行, 力人刀楯一行。連細楯, 殿中司馬, 殿中都尉, 殿中校尉, 為左右各十二行。金根車建青旂十二。左將軍騎在左, 右將軍騎在右, 殿中將軍持鑿腦斧夾車, 車後衣書主職步從, 六行, 合左右三十二行。
次曲華蓋, 中道。侍中、散騎常侍、黃門侍郎並騎, 分左右。
次黃鉞車, 駕一, 在左, 御麾騎在右。
次相風, 中道。
次中書監騎左, 秘書監騎右。
次殿中御史騎左, 殿中監騎右。
次五牛旗, 赤青在左, 黃在中, 白黑在右。
次大輦, 中道。太官令丞在左, 太醫令丞在右。
次金根車, 駕駟, 不建旗。
次青立車, 次青安車, 次赤立車, 次赤安車, 次黃立車, 次黃安車, 次白立車, 次白安車, 次黑立車, 次黑安車, 合十乘, 並駕駟。建旗十二, 如車色。立車正豎旗, 安東邪拖之。
次蹋豬車, 駕駟, 中道, 無旗。
次耕根車, 駕駟, 中道, 赤旗十二, 熊渠督左, 佽飛督右。
次御軺車, 次御四望車, 次御衣車, 次御書車, 次御藥車, 並駕牛, 中道。
次尚書令在左, 尚書僕射在右, 又尚書郎六人, 分次左右, 並駕。又治書侍御史二人, 分左右, 又侍御史二人, 分次左右, 又蘭臺令史分次左右, 並騎。
次豹尾車, 駕一。自豹尾車後而鹵簿盡矣。但以神弩二十張夾道, 至後部鼓吹。其五張神弩置一將, 左右各二將。
次輕車二十乘, 左右分駕。
次流蘇馬六十匹。
次金鉞車, 駕三, 中道。左右護駕尚書郎并令史, 並騎, 各一人。
次金鉦車, 駕三, 中道。左右護駕侍御史并令史等, 並騎, 各一人。
次黃門後部鼓吹, 左右各十三人。
次戟鼓車, 駕牛, 二乘, 分左右。次左大鴻臚外部掾, 右五官掾、功曹史, 並駕。
次大鴻臚, 駕駟, 鉞吏六人。
次大司農引從, 中道, 左大鴻臚主簿、主記, 右少府引從。
次三卿, 並騎, 吏四人, 鈴下二人, 執馬鞭辟車六人, 執方扇羽林十人, 朱衣。
次領軍將軍, 中道。鹵簿左右各二行, 九尺楯在外, 弓矢在內, 鼓吹如護軍。
次後軍將軍在左, 右將軍在右, 各鹵簿鼓吹如左軍、前軍。
次越騎校尉在左, 屯騎校尉在右, 各鹵簿鼓吹如步兵、射聲。
次領護驍騎、游軍校尉, 皆騎, 吏四人, 乘馬夾道, 都督兵曹各一人, 乘馬在中。騎將軍四人, 騎校、鞉角、金鼓、鈴下、信幡、軍校並駕一。功曹吏、主簿並騎從。散扇幢麾各一騎, 鼓吹一部, 七騎。
次領護軍, 加大車斧, 五官掾騎從。
次騎十隊, 隊各五十匹。將一人, 持幢一人, 鞉一人, 並騎在前, 督戰伯長各一人, 並騎在後, 羽林騎督、幽州突騎督分領之。郎簿十隊, 隊各五十人。絳袍將一人, 騎、鞉各一人, 在前, 督戰伯長各一人, , 在後。騎皆持槊。
次大戟一隊, 九尺楯一隊, 刀楯一隊, 弓一隊, 弩一隊, 隊各五十人。黑褲褶將一人, 騎校、鞉角各一人, , 在前, 督戰伯長各一人, , 在後。金顏督將并領之。
皇太子安車, 駕三, 左右騑。朱班輪, 倚獸較, 伏鹿軾。九旒, 畫降龍。青蓋, 金華蚤二十八枚。黑𣝛文畫轓, 文輈, 黃金塗五採。亦謂之鸞路。非法駕則乘畫輪車, 上開四望, 綠油幢, 朱絲繩絡, 兩箱裏飾以金錦, 黃金塗五采。其副車三乘, 形制如所乘, 但不畫輪耳。
王青蓋車, 皇孫綠蓋車, 並駕三, 左右騑。
雲母車, 以雲母飾犢車。臣下不得乘, 以賜王公耳。
皁輪車, 駕四牛, 形制猶如犢車, 但皁漆輪轂, 上加青油幢, 朱絲繩絡。諸王三公有勛德者特加之。位至公或四望、三望、夾望車。
油幢車, 駕牛, 形制如皁輪, 但不漆轂耳。王公大臣有勛德者特給之。
通幰車, 駕牛, 猶如今犢車制, 但舉其幰通覆車上也。諸王三公並乘之。
諸公給朝車駕四、安車黑耳駕三各一乘, 皁輪犢車各一乘。自祭酒掾屬以下及令史, 皆皁零, 辟朝服。其武官公又別給大車。
特進及車騎將軍驃騎將軍以下諸大將軍不開府非持節都督者, 給安車黑耳駕二, 軺車施耳後戶一乘。
三公、九卿、中二千石、二千石、河南尹、謁者僕射、郊廟明堂法出, 皆大車立乘, 駕駟。前後導從大車駕二, 右騑。他出乘安車。其去位致仕告老, 賜安車駟馬。
郡縣公侯, 安車駕二, 右騑。皆朱班輪, 倚鹿較, 伏熊軾, 黑輜, 皁繒蓋。
公旗旂八旒, 侯七旒, 卿五旒, 皆畫降龍。
中二千石、二千石, 皆皁蓋, 朱兩轓, 銅五采, 駕二。中二千石以上, 右騑。千石、六百石, 朱左轓。車轓長六尺, 下屈廣八寸, 上業廣尺二寸, 九丈, 十二初, 後謙一寸, 若月初生, 示不敢自滿也。
王公之世子攝命理國者, 安車, 駕三, 旗旂七旒, 其封侯之世子五旒。
太康四年, 制:「依漢故事, 給九卿朝車駕四及安車各一乘。」八年, 詔:「諸尚書軍校加侍中常侍者, 皆給傳事乘軺車, 給劍, 得入殿省中, 與侍臣升降相隨。」
大使車, 立乘, 駕四, 赤帷裳, 騶騎導從。舊公卿二千石郊廟上陵從駕, 乘大使車, 他出乘安車也。
小使車, 不立乘, 駕四, 輕車之流也。蘭輿皆朱, 赤轂, 赤屏泥, 白蓋, 赤帷裳, 從騶騎四十人。又別有小使車, 赤轂皁蓋, 追捕考案有所執取者之所乘也。凡諸使車皆朱班輪, 赤衡軛。
追鋒車, 去小平蓋, 加通幰, 如軺車, 駕二。追鋒之名, 蓋取其迅速也, 施於戎陣之間, 是為傳乘。
軺車, 古之時軍車也。一馬曰軺車, 二馬曰軺傳。漢世貴輜軿而賤軺車, 魏晉重軺車而賤輜軿。三品將軍以上、尚書令軺車黑耳有後戶, 僕射但有後戶無耳, 並皂輪。尚書及四品將軍則無後戶, 漆轂輪。其中書監令如僕射, 侍中、黃門、散騎, 初拜及謁陵廟, 亦得乘之。
皇太后、皇后法駕, 乘重翟羽蓋金根車, 駕青輅, 青帷裳, 𣝛畫轅, 黃金塗五采, 蓋爪施金華, 駕三, 左右騑。其廟見小駕, 則乘紫罽軿車, 𣝛畫輈, 黃金塗五采, 駕三。非法駕則皇太后乘輦, 皇后乘畫輪車。皇后先蠶, 乘油畫雲母安車, 駕六騩馬;騩, 淺黑色。油畫兩轅安車, 駕五騩馬, 為副。又, 金薄石山軿、紫絳罽軿車, 皆駕三騩馬, 為副。女旄頭十二人, 持棨戟二人, 共載安車, 儷駕。女尚輦十二人, 乘輜車, 儷駕。女長御八人, 乘安車, 儷駕。三夫人油軿車, 駕兩馬, 左騑。其貴人駕節畫輈。三夫人助蠶, 乘青交路, 安車, 駕三, 皆以紫絳罽軿車。九嬪世婦乘軿車, 駕三。
長公主赤罽軿車, 駕兩馬。公主、王太妃、王妃, 皆油軿車, 駕兩馬, 右騑。公主油畫安車, 駕三, 青交路, 以紫絳罽軿車駕三為副, 王太妃、三夫人亦如之。公主助蠶, 乘油畫安車, 駕三。公主有先置者, 乘青交路安車, 駕三。
諸王妃、公太夫人、夫人、縣鄉君、諸郡公侯特進夫人助蠶, 乘皁交路安車, 駕三。
諸侯監國世子之世婦、侍中常侍尚書中書監令卿校世婦、命婦助蠶, 乘皁交路安車, 儷駕。
郡縣公侯、中二千石、二千石夫人會朝及蠶, 各乘其夫之安車, 皆右騑, 皁交路, 皁帷裳。自非公會則不得乘軺車, 止乘漆布輜軿, 銅五采而已。
王妃、特進夫人、封郡君, 安車, 駕三, 皂交路。封縣鄉君油軿車, 駕兩馬, 右騑。
自過江之後, 舊章多缺。元帝踐極, 始造大路、戎路各一, 皆即古金根之制也, 無復充庭之儀。至於郊祀大事, 則權飾餘車以周用。六師親征則用戎路, 去其蓋而乘之, 屬車但五乘而已。加綠油幢, 朱絲路, 飾青交路, 黃金塗五采, 其輪轂猶素, 兩箱無金錦之飾。其一車又是軺車, 舊儀, 天子所乘駕六, 是時無復六馬之乘, 五路皆駕四而已, 同用黑, 是為玄牡。無復五時車, 有事則權以馬車代之, 建旗其上。其後但以五色木牛象五時車, 豎旗於牛背, 行則使人輿之。牛之義, 蓋取其負重致遠安而穩也。旗常纏而不舒旆, 所謂德車結旌者也。惟天子親戎, 五旗舒旆, 所謂武車綏旌者也。指南車, 過江亡失, 及義熙五年, 劉裕屠廣固, 始復獲焉, 乃使工人張綱補緝周用。十三年, 裕定關中, 又獲司南、記里諸車, 制度始備。其輦, 過江亦亡制度, 太元中謝安率意造焉, 及破苻堅於淮上, 獲京都舊輦, 形制無差, 大小如一, 時人服其精記。義熙五年, 劉裕執慕容超, 獲金鉦輦、豹尾, 舊式猶存。
元帝太興三年, 皇太子釋奠。制曰:「今草創, 未有高車, 可乘安車也。」太元中, 東宮建, 乘路有青赤旂, 致疑。徐邈議, 太子既不備五路, 赤旂宜省。漢制, 太子鸞路皆以安車為名。自晉過江, 禮儀疏舛, 王公以下, 車服卑雜, 惟有東宮禮秩崇異, 上次辰極, 下納侯王。而安帝為皇太子乘石山安車, 制如金路, 義不經見, 事無所出。
中宮初建及祀先蠶, 皆用法駕, 太僕妻御, 大將軍妻參乘, 侍中妻陪乘, 丹陽尹建康令及公卿之妻奉引, 各乘其夫車服, 多以宮人權領其職。
《周禮》, 弁師掌六冕, 司服掌六服。自后王之制爰及庶人, 各有等差。及秦變古制, 郊祭之服皆以袀玄, 舊法掃地盡矣。漢承秦弊, 西京二百餘年猶未能有所制立。及中興後, 明帝乃始採《周官》、《禮記》、《尚書》及諸儒記說, 還備袞冕之服。天子車乘冠服從歐陽氏說, 公卿以下從大小夏侯氏說, 始制天子、三公、九卿、特進之服, 侍祠天地明堂, 皆冠旒冕, 兼五冕之制, 一服而已。天子備十二章, 三公諸侯用山龍九章, 九卿以下用華蟲七章, 皆具五采。魏明帝以公卿袞衣黼黻之飾, 疑於至尊, 多所減損, 始制天子服刺繡文, 公卿服織成文。及晉受命, 遵而無改。天子郊祀天地明堂宗廟, 元會臨軒, 黑介幘, 通天冠, 平冕。冕, 皁表, 朱綠裏, 廣七寸, 長二尺二寸, 加於通天冠上, 前圓後方, 垂白玉珠, 十有二旒, 以朱組為纓, 無緌。佩白玉, 垂珠黃大旒, 綬黃赤縹紺四采。衣皁上, 絳下, 前三幅, 後四幅, 衣畫而裳繡, 為日、月、星辰、山、龍、華蟲、藻、火、粉米、黼、黻之象, 凡十二章。素帶廣四寸, 朱裏, 以朱綠裨飾其側。中衣以絳緣其領袖。赤皮為韍, 絳褲襪, 赤舄。未加元服者, 空頂介幘。其釋奠先聖, 則皁紗袍, 絳緣中衣, 絳褲襪, 黑舄, 其臨軒, 亦袞冕也。其朝服, 通天冠高九寸, 金博山顏, 黑介幘, 絳紗袍, 皁緣中衣。其拜陵, 黑介幘, 單衣。其雜服, 有青赤黃白緗黑色, 介幘, 五色紗袍, 五梁進賢冠, 遠遊冠, 平上幘武冠。其素服, 白單衣。後漢以來, 天子之冕, 前後旒用真白玉珠。魏明帝好婦人之飾, 改以珊瑚珠。晉初仍舊不改。及過江, 服章多闕, 而冕飾以翡翠珊瑚雜珠。侍中顧和奏:「舊禮, 冕十二旒, 用白玉珠。今美玉難得, 不能備, 可用白璇珠。」從之。
通天冠, 本秦制。高九寸, 正豎, 頂少斜卻, 乃直下, 鐵為卷梁, 前有展筒, 冠前加金博山述, 乘輿所常服也。
平冕, 王公、卿助祭於郊廟服之。王公八旒, 卿七旒。以組為纓, 色如其綬。王公衣山龍以下九章, 卿衣華蟲以下七章。
遠遊冠, 傅玄云秦冠也。似通天而前無山述, 有展筒橫于冠前。皇太子及王者後、帝之兄弟、帝之子封郡王者服之。諸王加官者自服其官之冠服, 惟太子及王者後常冠焉。太子則以翠羽為緌, 綴以白珠, 其餘但青絲而已。
緇布冠, 蔡邕云即委貌冠也。太古冠布, 齊則緇之。緇布冠, 始冠之冠也。其制有四形, 一似武冠, 又一似進賢, 其一上方其下如幘顏, 其一刺上而方下。行鄉射禮則公卿委貌冠, 以皁絹為之。形如覆杯, 與皮弁同制, 長七寸, 高四寸。衣黑而裳素, 其中衣以皁緣領袖。其執事之人皮弁, 以鹿皮為之。
進賢冠, 古緇布遺象也, 斯蓋文儒者之服。前高七寸, 後高三寸, 長八寸, 有五梁、三梁、二梁、一梁。人主元服, 始加緇布, 則冠五梁進賢。三公及封郡公、縣公、郡侯、縣侯、鄉亭侯, 則冠三梁。卿、大夫、八座, 尚書, 關中內侯、二千石及千石以上, 則冠兩梁。中書郎、秘書丞郎、著作郎、尚書丞郎、太子洗馬舍人、六百石以下至于令史、門郎、小史、並冠一梁。漢建初中, 太官令冠兩梁, 親省御膳為重也。博士兩梁, 崇儒也。宗室劉氏亦得兩梁冠, 示加服也。
武冠, 一名武弁, 一名大冠, 一名繁冠, 一名建冠, 一名籠冠, 即古之惠文冠。或曰趙惠文王所造, 因以為名。亦云, 惠者蟪也, 其冠文輕細如蟬翼, 故名惠文。或云, 齊人見千歲涸澤之神, 名曰慶忌, 冠大冠, 乘小車, 好疾馳, 因象其冠而服焉。漢幸臣閎孺為侍中, 皆服大冠。天子元服亦先加大冠, 左右侍臣及諸將軍武官通服之。侍中、常侍則加金璫, 附蟬為飾, 插以貂毛, 黃金為竿, 侍中插左, 常侍插右。胡廣曰:「昔趙武靈王為胡服, 以金貂飾首。秦滅趙, 以其君冠賜侍臣。」應劭《漢官》云:「說者以為金取剛強, 百煉不耗。蟬居高飲清, 口在掖下。貂內勁悍而外柔縟。」又以蟬取清高飲露而不食, 貂則紫蔚柔潤而毛采不彰灼, 金則貴其寶瑩, 於義亦有所取。或以為北土多寒, 胡人常以貂皮溫額, 後世效此, 遂以附冠。漢貂用赤黑色, 王莽用黃貂, 各附服色所尚也。
高山冠, 一名側注, 高九寸, 鐵為卷梁, 制似通天。頂直豎, 不斜卻, 無山述展筒。高山者, 《詩》云「高山仰止」, 取其矜莊賓遠者也。中外官、謁者、謁者僕射所服。胡廣曰:「高山, 齊王冠也。傅曰『桓公好高冠大帶』。秦滅齊, 以其君冠賜謁者近臣。」應劭曰:「高山, 今法冠也, 秦行人使官亦服之。」而《漢官儀》云「乘輿冠高山之冠, 飛翮之纓」, 然則天子亦有時服焉。《傅子》曰:「魏明帝以其制似通天、遠遊, 故改令卑下。」
法冠, 一名柱後, 或謂之獬豸冠。高五寸, 以縰為展筒。鐵為柱卷, 取其不曲撓也。侍御史、廷尉正監平, 凡執法官皆服之。或謂獬豸神羊, 能觸邪佞。《異物志》云:「北荒之中, 有獸名獬豸, 一角, 性別曲直。見人鬥, 觸不直者。聞人爭, 咋不正者。楚王嘗獲此獸, 因象其形以制衣冠。」胡廣曰:「《春秋左氏傳》晉侯觀于軍府, 見鐘儀, 曰『南冠而縶者誰也』?南冠即楚冠。秦滅楚, 以其冠服賜執法臣也。」
長冠, 一名齊冠。高七寸, 廣三寸, 漆纚為之, 制如版, 以竹為裏。漢高祖微時, 以竹皮為此冠, 其世因謂劉氏冠。後除竹用漆纚。司馬彪曰:「長冠蓋楚制。人間或謂之鵲尾冠, 非也。救日蝕則服長冠, 而祠宗廟諸祀冠之。此高祖所造, 後世以為祭服, 尊敬之至也。」
建華冠, 以鐵為柱卷, 貫大銅珠九枚, 古用雜木珠, 原憲所冠華冠是也。又《春秋左氏傳》鄭子臧好聚鷸冠, 謂建華是也。祀天地、五郊、明堂, 舞人服之。漢《育命舞》樂人所服。
方山冠, 其制似進賢。鄭展曰:「方山冠, 以五采縠為之。」漢《大予》、《八佾》、《五行》樂人所服, 冠衣各如其行方之色而舞焉。
巧士冠, 前高七寸, 要後相通, 直豎。此冠不常用, 漢氏惟郊天, 黃門從官四人冠之;在鹵簿中, 夾乘輿車前, 以備宦者四星。或云, 掃除從官所服。
卻非冠, 高五寸, 制似長冠。宮殿門吏僕射冠之。負赤幡, 青翅燕尾, 諸僕射幡皆如之。
卻敵冠, 前高四寸, 通長四寸, 後高三寸, 制似進賢。凡當殿門衛士服之。
樊噲冠, 廣九寸, 高七寸, 前後出各四寸, 制似平冕。昔楚漢會於鴻門, 項籍圖危高祖, 樊噲常持鐵楯, 聞急, 乃裂裳苞楯, 戴以為冠, 排入羽營, 因數羽罪, 漢王乘間得出。後人壯其意, 乃制冠象焉。凡殿門司馬衛士服之。
術氏冠, 前圓, 吳制, 差池四重。趙武靈王好服之。或曰, 楚莊王復仇冠是也。
鶡冠, 加雙鶡尾, 豎插兩邊。鶡, 鳥名也, 形類鷂而微黑, 性果勇, 其鬥到死乃止。上黨貢之, 趙武靈王以表顯壯士。至秦漢, 猶施之武人。
皮弁, 以鹿皮淺毛黃白色者為之。《禮》「王皮弁, 會五採玉綦, 象邸玉笄」, 謂之合皮為弁。其縫中名曰會, 以采玉朱為綦。綦, 結也。天子五采, 諸侯三採。邸, 冠下抵也, 象骨為之, 音帝也。天子則縫十二, 公侯伯七, 子男五, 孤四, 卿大夫三。
韋弁, 制似皮弁, 頂上尖, 韎草染之, 色如淺絳。
爵弁, 一名廣冕。高八寸, 長尺二寸, 如爵形, 前小後大。增其上似爵頭色。有收持笄, 所謂夏收殷哻者也。祠天地、五郊、明堂, 《雲翹舞》樂人服之。
幘者, 古賤人不冠者之服也。漢元帝額有壯髮, 始引幘服之。王莽頂禿, 又加其屋也。《漢注》曰, 冠進賢者宜長耳, 今介幘也。冠惠文者宜短耳, 今平上幘也。始時各隨所宜, 遂因冠為別。介幘服文吏, 平上幘服武官也。童子幘無屋者, 示不成人也。又有納言幘, 幘後收又一重, 方三寸。又有赤幘, 騎吏、武吏、乘輿鼓吹所服。救日蝕, 文武官皆免冠著幘, 對朝服, 示武威也。
漢儀, 立秋日獵, 服緗幘。及江左, 哀帝從博士曹弘之等議, 立秋御讀令, 改用素白。案漢末王公名士多委王服, 以幅巾為雅, 是以袁紹、崔鈞之徒, 雖為將帥, 皆著縑巾。魏武以天下凶荒, 資財乏匱, 擬古皮弁, 裁縑帛以為, 合乎簡易隨時之義, 以色別其貴賤, 本施軍飾, 非為國容也。徐爰曰:「俗說本未有岐, 荀文若巾之行, 觸樹枝成岐, 謂之為善, 因而弗改。」今通以為慶弔服。
, 以葛為之, 形如而橫著之, 古尊卑共服也。故漢末妖賊以黃為巾, 世謂黃巾賊。
帽名猶冠也, 義取於蒙覆其首, 其本纚也。古者冠無幘, 冠下有纚, 以繒為之。後世施幘於冠, 因或裁纓為帽。自乘輿宴居, 下至庶人無爵者皆服之。成帝咸和九年, 制聽尚書八座丞郎、門下三省侍官乘車, 白低幃, 出入掖門。又, 二宮直官著烏紗。然則往往士人宴居皆著矣。而江左時野人已著帽, 人士亦往往而然, 但其頂圓耳, 後乃高其屋云。
漢制, 自天子至于百官, 無不佩劍, 其後惟朝帶劍。晉世始代之以木, 貴者猶用玉首, 賤者亦用蚌、金銀、玳瑁為雕飾。
乘輿六璽, 秦制也。曰「皇帝行璽」、「皇帝之璽」、「皇帝信璽」、「天子行璽」、「天子之璽」、「天子信璽」, 漢遵秦不改。又有秦始皇藍田玉璽, 螭獸紐, 在六璽之外, 文曰「受天之命, 皇帝壽昌」。漢高祖佩之, 後世名曰傳國璽, 與斬白蛇劍俱為乘輿所寶。斬白蛇劍至惠帝時武庫火燒之, 遂亡。及懷帝沒胡, 傳國璽沒於劉聰, 後又沒於石勒。及石季龍死, 胡亂, 穆帝世乃還江南。
革帶, 古之鞶帶也, 謂之鞶革, 文武眾官牧守丞令下及騶寺皆服之。其有囊綬, 則以綴於革帶, 其戎服則以皮絡帶代之。八坐尚書荷紫, 以生紫為袷囊, 綴之服外, 加於左肩。昔周公負成王, 制此服衣, 至今以為朝服。或云漢世用盛奏事, 負之以行, 未詳也。
車前五百者, 卿行旅從, 五百人為一旅。漢氏一統, 故去其人, 留其名也。
褲褶之制, 未詳所起, 近世凡車駕親戎、中外戒嚴服之。服無定色, 冠黑帽, 綴紫摽, 摽以繒為之, 長四寸, 廣一寸, 腰有絡帶以代鞶。中官紫摽, 外官絳摽。又有纂嚴戎服而不綴摽, 行留文武悉同。其畋獵巡幸, 則惟從官戎服帶鞶革, 文官不下纓, 武官脫冠。
漢制, 一歲五郊, 天子與執事者所服各如方色, 百官不執事者服常服絳衣以從。魏祕書監秦靜曰:「漢氏承秦, 改六冕之制, 但玄冠絳衣而已。」魏已來名為五時朝服, 又有四時朝服, 又有朝服。自皇太子以下隨官受給。百官雖服五時朝服, 據今止給四時朝服, 闕秋服。三年一易。
諸假印綬而官不給鞶囊者, 得自具作, 其但假印不假綬者, 不得佩綬鞶, 古制也。漢世著鞶囊者, 側在腰間, 或謂之傍囊, 或謂之綬囊, 然則以紫囊盛綬也。或盛或散, 各有其時。
, 古者貴賤皆執笏, 其有事則搢之於腰帶, 所謂搢紳之士者, 搢笏而垂紳帶也。紳垂長三尺。笏者, 有事則書之, 故常簪筆, 今之白筆是其遺象。三臺五省二品文官簪之, 王、公、侯、伯、子、男、卿尹及武官不簪, 加內侍位者乃簪之。手版即古笏矣。尚書令、僕射、尚書手版頭復有白筆, 以紫皮裹之, 名曰笏。
皇太子金璽龜鈕, 朱黃綬, 四采:赤、黃、縹、紺。給五時朝服、遠遊冠, 介幘、翠緌。佩瑜玉, 垂組。朱衣絳紗襮, 皁緣白紗, 其中衣白曲領。帶劍, 火珠素首。革帶, 玉鉤燮獸頭鞶囊。其大小會、祠宗廟、朔望、五日還朝皆朝服, 常還上宮則朱服, 預上宮正會則於殿下脫劍舄。又有三梁進賢冠。其侍祀則平冕九旒, 袞衣九章, 白紗絳緣中單, 絳繒韠, 采畫織成袞帶, 金辟邪首, 紫綠二色帶, 采畫廣領、曲領各一, 赤舄絳襪。若講, 則著介幘單衣。釋奠, 則遠遊冠, 玄朝服, 絳緣中單, 絳褲襪, 玄舄。若未加元服, 則中舍人執冕從, 介幘單衣玄服。
諸王金璽龜鈕, 纁朱綬, 四采:朱、黃、縹、紺。五時朝服, 遠遊冠介幘, 亦有三梁進賢冠。朱衣絳紗襮皁緣, 中衣表素。革帶, 黑舄, 佩山玄玉, 垂組, 大帶。若加餘官, 則服其加官之服也。
皇后謁廟, 其服皂上皁下, 親蠶則青上縹下, 皆深衣制, 隱領, 袖緣以絳。首飾則假髻, 步搖, 俗謂之珠松是也, 簪珥。步搖以黃金為山題, 貫白珠為支相繆。八爵九華, 熊、獸、赤羆、天鹿、辟邪、南山豐大特六獸, 諸爵獸皆以翡翠為毛羽, 金題白珠榼, 繞以翡翠為華。元康六年, 詔曰:「魏以來皇后蠶服皆以文繡, 非古義也。今宜純服青, 以為永制。」
貴人、夫人、貴嬪, 是為三夫人, 皆金章紫綬, 章文曰貴人、夫人、貴嬪之章。佩于闐玉。
淑妃、淑媛、淑儀、脩華、脩容、脩儀、婕妤、容華、充華, 是為九嬪, 銀印青綬, 佩采瓄玉。
貴人、貴嬪、夫人助蠶, 服純縹為上與下, 皆深衣制。太平髻, 七金奠蔽髻, 黑玳瑁, 又加簪珥。九嬪及公主、夫人五金奠, 世婦三金奠。助蠶之義, 自古而然矣。
皇太子妃金璽龜鈕, 纁朱綬, 佩瑜玉。
諸王太妃、妃、諸長公主、公主、封君金印紫綬, 佩山玄玉。
長公主、公主見會, 太平髻, 七金奠蔽髻。其長公主得有步搖, 皆有簪珥, 衣服同制。自公主、封君以上皆帶綬, 以彩組為緄帶, 各如其綬色, 金闢邪首為帶玦。
郡公侯縣公侯太夫人, 夫人銀印青綬, 佩水蒼玉, 其特加乃金紫。
公特進侯卿校世婦、中二千石二千石夫人紺繒幗, 黃金龍首銜白珠, 魚須擿長一尺為簪珥。入廟佐祭者皁絹上下。助蠶者縹絹上下, 皆深衣制緣。
自二千石夫人以上至皇后, 皆以蠶衣為朝服。